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親兄弟からすると、どうもぼくは一日中仕事をしているように見えるようなのだが、当然ながらちっともそんなことはないのである。ときどきWoTでヤークトパンターやティーガーを転がしているとかそういうことではなく、ぼくがPCに向かっている時間のほとんどは制作に充てられているからだ。もっとも、彼らに言わせれば「それだって仕事だろう」ということになるのだが。
仕事というのは、報酬と引き換えに、誰かの代わりに何かをすることだ。例えば店主の代わりに店番をするとか、施主の代わりに家を建てるとかしてお金を貰うことである。ぼくの場合、本業はWeb屋なので、この例で言うと後者に近い。つまりクライアントの代わりにWebサイトやら何やらを作ってお金を頂戴している訳だ。これに対して制作は、自分のために何かを作ることである。ゲームや音楽はもちろん、たとえ同じようにWeb関連の作業をしていても、それは仕事である場合と制作である場合とがあるのだ。もっとも作業内容そのものは似通っているから、傍目に違いがわかりにくいのは仕方のないところかもしれない。要は動機の問題だ。
何年か前に、同人ゲーム制作チームでモチベーションをいかに保つかというようなことが局所的に話題になったことがあった。今もなっているかもしれないが、よく知らない。そして話を持ち出しておいて何だが、話題になったことは覚えているものの、当時百出した意見やら議論やらはあらかた忘れてしまった。
今になってぼんやり思うのは、各メンバーの担当している作業が「仕事」なのか「制作」なのか、それによって気の持ちようは大きく変わるだろうということだ。自分たちの作品を作っているのだと思って手を動かすのと、誰かの作りたいものを手伝っているのだと思って作業をするのとでは、やはりいろいろ違うだろう。どちらにしても全体としては自主制作だから、報酬はどうやったって発生しない。つまり自分の受け持ちを仕事だと感じているメンバーにとって、それはタダ働きになってしまう訳である。そんな状態でモチベ上げろと言われてもなかなか難しかろう。
この問題の簡単な解決法というのはおそらく存在しない。ので、ぼくが誰かに何かを頼むときは、少なくとも仕事としてお願いできるようきちんと報酬を用意したいと常日頃考えている。金持ちになって豪華な暮らしをしたいとはあまり思わないのだが、そういう理由でお金はいくらあっても足りることは無さそうだ。どこかから制作費が湧いて出たりしないものだろうか。
メメント・モリというラテン語を初めて目にしたのはアトラスのペルソナ3のオープニングムービーでのことで、それまでぼくはこの言葉を見たことも聞いたことも無かった。それが死を想えという意味だと知ったのはゲームが中盤に差し掛かった頃で、しかしそれがゲームのシナリオで触れられたからなのか、それとも気になって調べてみたからなのか、その辺はよく覚えていない。
どちらにしても、この言葉、というか哲学に関するウィキペディアのページを、ぼくがその後何度か読んだことは事実である。それによれば、この言葉は主にキリスト教世界で使われ、現世の楽しみはどうせ死んだら仕舞なんだからほどほどにしておけという、教訓というか戒めというか、まあそういうものであったそうだ。ところが、この言葉が生まれた古代ローマでは、人間死んだらそこまでなんだから生きている限り生を楽しめという警句として使われることが多かったとのことで、まるで正反対で面白い。ぼくとしてはローマ人の意見に賛成だ。
ぼくが初めて死におびえたのは五歳か六歳の頃のことだ。といっても大したことではない。風邪をひいて熱を出し、このまま死んだら嫌だなぁというようなことを、魔女の宅急便のキキのように考えていたのである。前後の記憶はあまり無いのに、そのときの気分と風景は強烈に脳裏に残っている。夕方で、ぼくは額にタオルを当てられてソファで横になっていた。テレビでは何か戦隊ものをやっていて、それをぼんやりした頭で眺めていた。その回はたまたま重要な登場人物が死ぬか死んだ直後だかで重苦しいシーンが多く、それでそんなことを考えたのかもしれない。ともあれこの記憶は案外自分を縛っている。
ゲームであれ音楽であれ、大きなものをひとつ作り上げると、ファウスト博士のように時よ止まれと言いたくなることがある。どんな作品でもそれなりに満足感を与えてくれるからだ。安らかな死に自らの人生への満足感は欠かせない。満足しているタイミングで死ねるかどうかということもあるとは思うが、少なくとも満足する機会を増やすことは自分でできる。それが生きるということであるし、死を想うということでもあるのだろう。
セミは何故鳴くのか。無論メスを呼ぶためだ。周知の通り鳴くセミはすべてオスである。
彼らは鳴き声で自らの何をアピールしているのだろうかと考えてみる。最も重要なのは位置情報だ。俺はここにいる。だからここへ来い。自分一匹ならそれで良いだろう。だが実際には似たような姿で同じような音を発するライバルが周囲にいくらもいる。自分の子孫を残すためには他の連中よりも目立たねばならぬ。それでオスのセミたちはますます声を張り上げる。鳴くために生まれてきた彼らの体は場合によっては半分近くが空洞だ。他の器官に少しくらい窮屈な思いをさせてでも、そこで音を共鳴させ、増幅させている。それくらいセミにとって鳴くという行為は自らの繁栄に直結している。
メスから見た場合、選択の基準となるのは何だろうか。音量だろうか。音色だろうか。それとも節回しやリズム感など、より高度な価値判断ができるのだろうか。それともそれら全てを総合的に判断しているのだろうか。音楽的価値を理解しているかどうかはともかく、種類によって特徴的な鳴き声パターンは、少なくとも自分の同胞を見付けるには有用であるに違いない。
鳴き声の質にせよ大きさにせよ、セミが人間のようにその手に楽器を持てない以上、彼らの発する音は彼らの体の状態を表示するインジケータとして働くだろう。セミの声は一種の発振器によって生み出され、腹の共鳴器をアンプとして出力する。いうなれば簡易的なシンセサイザだ。音質にはオシレータの状態が重要なファクタであるし、音の大きさにはアンプの出力ゲイン、ここでは腹腔の大きさに依存する。ということは、大きく良い音色を出すセミは、相対的に栄養状態や健康状態が良いということになる。なるほど、これならメスによる判断基準となるかもしれない。我々が音を聞いて楽器を選ぶように、彼女らはそれで配偶者を見付ける。
では、セミは次第にその体を大きく有利なものにしていくのだろうか。可能性としてはゼロではないだろう。だが優秀なオスの子がいたとして、それが成虫にまで生き残る確率は平均的な幼虫より若干高いくらいだろうから、もしそうなるとしても相当な時間が必要になる。その相当な期間を種族として生き抜くために、セミは優秀なのも平凡なのも入り交じって、命を賭けて鳴くのだろう。
自然界に無駄や不合理は何一つない。しかしそれでも、種族の栄光のために真に必要とされるのは、大きく美しい音を発声できる一握りのセミたちだけなのだ。