このミニアルバムを「架空の歴史ドキュメンタリー紀行番組のサウンドトラック」にしようというのは、昨年、幻想音楽祭の第一報を聞いて参加しようと思った瞬間くらいに決めた。念頭にあったのはエンヤの『ケルツ』とか大島ミチルの『ワーズワースの冒険』とか。念のために書いておくと、このふたつは実際のテレビ番組のサントラである。結局サウンド的にはずいぶん違ったものになったけれども。
とにかく架空の歴史ドキュメンタリー紀行であるので、その対象も創作しなければならない。創作未来クロニクルの範疇でファンタジーをやることもできるのだが、それをやると大変アレな感じのネタバレになるので、何の関連性も無いものにすることにした。そこで、まず建国前史の概要をざっくりと書き、次にその内容をうっすらと反映気味な雰囲気の創世・建国神話を書いた。シェルミスクという国名は作中では女神シェルムテにちなむが、実際には国名の方を先に決めた。どことなく東欧風なのは音がきれいだからで、その他の理由は特に無い。興亡史はそれほど詳細には書いていない。
最初に作った曲は『女神の丘』で、アルバム全体の雰囲気はこの曲が決定付けた。これを最後に配置したのは、これが番組のエンディングテーマだから。というのと、古代帝国から永い時間を経てからの、遺跡としてのシェルムテ神殿をイメージしているからである。面白いことに、といってもぼくが勝手に面白がっているだけかもしれないが、1曲目『三柱の祝福』を作ったのは逆に最後になった。実はオープニングとしてちょっと壮大な感じのオーケストラ曲を作っていたのだけど、これが驚くほどアルバムになじまなかった。ので、その中のモチーフをひとつ取り出して、シンプルというか古風というか、そういう感じに作り直したのである。
スペースの展示も、ハープのミニチュアを置いてみたり、LP風のジャケットを飾ってみたり、ぼくにしては凝ったことがいろいろと(ふたつ)あった。特に後者は、幻想音楽祭のときに一度だけだが「LP作ったんですか」「いや、フェイクです」というやりとりができて嬉しかった。そうしたら幻想音楽祭では実物のリュートを展示している人がいたり、M3では現地で本物のアイリッシュハープを弾いている人がいたり、音けっとでは本当にLPを作っている人がいたりして、世の中上には上がいるものだなと思った。
]]>まあそういう訳で、今日からNintendo eShopにて『パケットクイーン#』が配信開始となった次第であります。
【お知らせ】Nintendo Switch向けアクティブソリティア「パケットクイーン#」が、3月1日ニンテンドーeショップにて配信開始!
— StudioF# (@FSP_INFO) 2018年2月22日
新要素 「プラチナパケット」でより遊びやすくなりました。
販売価格500円。
よろしくお願いします!https://t.co/R4q3NwYoC5#NintendoSwitch#パケットクイーン pic.twitter.com/6cvGdPvoLm
詳しくは書けませんが、ここ二ヶ月ほどは配信に向けてのあれやこれやでてんやわんやという状態で、感慨がどうこうとかいう余裕が無く。そもそも現在もなんやかんやしている最中だったりするんですが、それでも試しに手元のSwitchでeShopを開いてみて、無事に配信が始まっていたのを確認したら、流石にほっとしました。とりあえず現在の率直な想いとしては、ゲームタイトルとかサークル名とかに「#」のようなクリティカルな記号を使うのは二度と御免だという辺りですかね。サークル名については最早どうしようもないけど。eShopでメーカー名が「スタジオエフシャープ」という表記になっている事情は察してください。ちなみに海外だと「Studio F-Sharp」になってたりします。
Steam版を出すときに書いたかどうか忘れましたが、というか今読み返してみて書いてなかったので書きますが、今作は数年前にPlayStation®Mobileというプラットフォームで出したゲームのリメイクです。リメイクですが、ルールからストーリーから結構ガラリと変わってますので、当時お買い上げいただいた方にもご満足いただけるものになっているでのはないかと。ちなみに、Nintendo Switch版ではさらに「プラチナパケット」なるルールが追加されました。詳細はプレイしてみてのお楽しみですが、というかプロモクリップ見たらわかりますが、とにかくこちらは近日中にSteam版にもアップデートで実装予定ですので、Steam版をご購入された方はどうぞご安心を。
それにしてもNintendo Switchは遊びやすく作りやすい、良いハードです。RPGやるなら現状これが最強な気がしますね。個人的に。そういえばこのリメイクを始めたきっかけというのが、「Vitaで遊べなくなったパケットクイーンを再び家庭用ゲーム機に」という微妙に不純な動機だったのを思い出しました。なぜそんなことを思ったのかというと、PS4で動かしているMGSVをVitaで寝床に持ち込めるらしいがそのためにはVitaを初期化してからリンクせねばならず、しかしそうするとパケットクイーンが消えてしまう、という事情があったんですね。前述のPS Mobileは今やプラットフォーム自体が終了し、一度消したらダウンロードできなくなってしまったもので。まあ、それを試してみる前にMGSVは遊び終えてしまったんですが。MGSVはRPGじゃないだろというツッコミもあるかもしれませんが、ともあれそういう遊び方を1台で実現できるSwitchは、本当にRPG向きだと思うのです。近々、満を持してゼルダかスカイリム辺りを寝床に持ち込もうかと思います。いやRPG作れよ。
]]>これが何者なのか自分でもさっぱりわからない。とにかく彼は、ドラでもなければ役にもならない南だの西だの北だのを片っ端からカンして周り、そのくせちっともアガりはせず、流れてみれば毎局ノーテンという迷惑極まりない奴なのである。書いているうちに片山まさゆき作品あたりに出典がありそうな気がしてきた。どこかで見かけるか何かしたことがあるのかもしれない。
パケットクイーンは、紹介文ではポーカー風味と書いてはいるが、流れてくるパケットを手に入れるかどうかだとか、入れたパケットの組み合わせで手役を作るという要素は、実のところ麻雀の影響の方が強い。ポーカー風なのは手役の種類というか傾向だけだったりする。その意味ではチャンポンなのだけど、単にポーカー風味としているのは、麻雀にはどうにも難しそうというイメージが付いて回っているからだ。やってみればそんなに難しいゲームでもないのだが(ただし点数計算を除く)、わからない人には用語からしてよくわからないらしい。麻雀用語には中国語由来というかエセ中国語みたいなのが多いから、その気持ちもわからないではないけれど、遊ぶ人間からするとどうしても、その程度で触れもしないのはもったいないなという気がしてしまう。
とはいうものの、藤川自身、しょうもない理由で見向きもしないものというのは結構ある。食わず嫌いを少しずつでも解消していくことは、大げさに言えば人生に新しい意味を付け加えてくれる。今年もひとつでも多く新しいものを見つけていきたいと思うし、できれば多くの人にそうあってほしい。その中にうちの作品が入ってくれたら望外の喜びだなと、まあ年始にはそういうことを思う訳である。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
]]>そこで、Packet Queen #の発売に際し、Steamを初体験するという方のために、いくつか注意点のような何かを記しておきたいと思います。
最初だけちょっと面倒ですが、一度入れてしまえば、複数台へのインストールからアップデートまで、割と広範囲に面倒を見てくれるので大変便利です(Packet Queen #に限らず)。
Steamのサイトに行くと、右上の方に「Steamをインストール」とか書かれてあるので、これをクリックしましょう。するとインストーラのダウンロードページへ飛びます。ダウンロードが完了したら、落ちてきたファイルをダブルクリック。指示に従っていけばそれほど迷うことなくSteamクライアントをインストールすることができます。
インストーラのダウンロードを待っている間にSteamアカウントを作っておきましょう。これは、やはり右上の「ログイン」リンクをクリックするとログインページへ飛ぶので、そちらから「Steamへ登録」を選んでください。それほど多くない入力項目で登録出来ます。なお、登録にはメールアドレスが必要になるので注意しましょう。
さて、ここまで出来たら、とりあえずSteamクライアントを起動してみましょう。登録したIDとパスワードで認証すると、お知らせかストア画面か、とにかく何らかの初期画面が表示されます。起動時にSteamクライアントのアップデート処理が入ったり、認証情報の確認作業が表示されることもありますが、慌てずクールに対処しましょう。
Steamクライアントは、インストールしたそのままの状態では、PC起動時に必ず自動起動されるようになっています。それほど頻繁にゲームをしないのであれば鬱陶しいことこの上ないので、まずはこれを無効にしておくと良いでしょう。Steamクライアントを起動し、セール情報といった感じのウィンドウが開いていたらそれを閉じます。次に、メインウィンドウ上部にあるメニューから「Steam」をクリックし、そこから「設定」を選びましょう。
設定ウィンドウが開いたら、ウィンドウ左側から「インターフェイス」を選びます。右に設定項目が出てきますので、まず「コンピュータの起動時にSteamを実行する」のチェックを外します。ついでに、もし「Big PictureモードでSteamを起動」にチェックが入っていたら、それも外してしまいましょう。その後、OKで設定を一旦閉じます。とりあえずはこれで程よいお付き合いができると思います。
他にもいろいろな設定項目がありますので、お好みに応じて設定すると良いでしょう(特にフレンド関連)。
Steamクライアントの作りはとても行き届いており、PCゲームでは事実上の標準であるXbox 360コントローラは元より、PS4コントローラにも標準対応しています。
が、最初に接続するときだけはちょっとした設定をする必要があります。再びSteamの設定ウィンドウを開きましょう。
設定ウィンドウが開いたら、ウィンドウ左側から「コントローラ」を選びます。次いで右側の画面から「一般のコントローラ設定」をクリックしましょう。すると何やら全画面でウィンドウが開きますが、慌てずに、左の方にある一覧の、「PS4設定サポート」と「Xbox設定サポート」「一般のゲームパッド設定サポート」にチェックを入れていきましょう。
チェックを入れ終わったら、この全画面ウィンドウを閉じます。その後ゲームパッドを繋ぐと、良い具合に認識されるはずです。新しいパッドを接続する際に何かダイアログが出てくると思いますが、概ね初期状態のまま「送信」で閉じて大丈夫です(名前くらいは変えても良いかも)。
前提としてクレジットカードが必要です。購入する前にアカウントにカード情報を登録しておきましょう。上級者はメインのカードとは分けたりするようです。支払い情報が登録出来たら、SteamクライアントからでもSteamのウェブサイトからでも購入できますので、お好みで。
メタルギアソリッドVのような3DバリバリのゲームはいわゆるゲーミングPCでないとかなり辛いですが、Packet Queen #のような2Dゲームでは、それほどのスペックを要求されない作品も多いです。結構頻繁にセール情報が出たりするので、眺めるだけでも楽しいですよ。
ちなみに、Packet Queen #はこちらから購入できますので、どうぞよろしくお願いします(宣伝)。
購入したゲームは、Steamクライアントの「ライブラリ」タブに表示されますので、何はなくともここを開きます。左側のゲーム一覧からタイトルをクリックすると、右側にそのゲームの情報と、「インストール」または「プレイ」といったボタンが表示されます。インストールやゲームの起動などは基本的にここから行うと良いでしょう。実績情報やプレイ時間なんかも表示されるので、プレイの指針になったりならなかったりもします。
選んだゲームが未インストールの場合は「インストール」ボタンでインストール開始。インストール済みの場合は代わりに「プレイ」ボタンが表示されていますので、これをクリックするとゲームが起動します。あとはうまい具合に遊び、ちょうど良いあたりでウィンドウを閉じたりしてゲームを終了する、という感じです。
ゲームによってはスタートメニューに登録され、そちらから起動することも出来ますが、このときも自動的にSteamクライアントから再起動される、つまり、起動したゲームが勝手に一度終了してまた立ち上がるという振る舞いをしてちょっとびっくりするので、藤川的にはライブラリからプレイ開始するのがオススメですかね。まあ、この辺は好みの問題ですけども。
なお、Steamクライアントは、ウィンドウを閉じただけでは終了されず、タスクトレイに残ります。終了したいときは「Steam」メニューから「終了」を選ぶか、タスクトレイアイコンを右クリックして「終了」を選びましょう。
以上、最初に知っておくべき注意点はこんなところでしょうか。ググると詳しいサイトがたくさん出てきますので、興味がある方はそちらも参考にしてみてくださいね。それでは、良いSteamライフを!
]]>仕事というのは、報酬と引き換えに、誰かの代わりに何かをすることだ。例えば店主の代わりに店番をするとか、施主の代わりに家を建てるとかしてお金を貰うことである。ぼくの場合、本業はWeb屋なので、この例で言うと後者に近い。つまりクライアントの代わりにWebサイトやら何やらを作ってお金を頂戴している訳だ。これに対して制作は、自分のために何かを作ることである。ゲームや音楽はもちろん、たとえ同じようにWeb関連の作業をしていても、それは仕事である場合と制作である場合とがあるのだ。もっとも作業内容そのものは似通っているから、傍目に違いがわかりにくいのは仕方のないところかもしれない。要は動機の問題だ。
何年か前に、同人ゲーム制作チームでモチベーションをいかに保つかというようなことが局所的に話題になったことがあった。今もなっているかもしれないが、よく知らない。そして話を持ち出しておいて何だが、話題になったことは覚えているものの、当時百出した意見やら議論やらはあらかた忘れてしまった。
今になってぼんやり思うのは、各メンバーの担当している作業が「仕事」なのか「制作」なのか、それによって気の持ちようは大きく変わるだろうということだ。自分たちの作品を作っているのだと思って手を動かすのと、誰かの作りたいものを手伝っているのだと思って作業をするのとでは、やはりいろいろ違うだろう。どちらにしても全体としては自主制作だから、報酬はどうやったって発生しない。つまり自分の受け持ちを仕事だと感じているメンバーにとって、それはタダ働きになってしまう訳である。そんな状態でモチベ上げろと言われてもなかなか難しかろう。
この問題の簡単な解決法というのはおそらく存在しない。ので、ぼくが誰かに何かを頼むときは、少なくとも仕事としてお願いできるようきちんと報酬を用意したいと常日頃考えている。金持ちになって豪華な暮らしをしたいとはあまり思わないのだが、そういう理由でお金はいくらあっても足りることは無さそうだ。どこかから制作費が湧いて出たりしないものだろうか。
]]>その時僕は、大学生活最初の夏休みを病院のベッドの上で過ごしていた。勢い込んで海に行き、できもしないのにサーフボードの上に立とうとして転倒し、溺れこそしなかったものの、ボードで胸をしたたかに打ったのだ。肋骨というのは折ると痛いものだと思った。
入院生活は暇なようで忙しかった。大して治ってもいないだろうに、来る日も来る日も検査があった。それに、毎日のように代わる代わる見舞いが来た。友人たちも何しろ夏休みで暇だったのだろう。中には二回来た奴もいた。一度など、あまり大勢で来たもので、病室を追い出されたこともあった。今になって思えばありがたいことではある。
そんなある日、二年後輩の女の子がひとりで病室を訪ねてきた。三年間見慣れた制服が懐かしかった。
「なんだ、元気そうですね先輩」
と彼女は言った。
「もう少し痛そうにしてるかと思ったのに」
「痛いんだけどね、これでも」
「どこでしたっけ」
「肋骨」
「肋骨っていうと……」
手を伸ばしてきたので慌てて身をよじった。
「逃げることないじゃないですか」
「逃げるだろ、普通」
冗談ですよ、真剣な顔しないでくださいよ、と彼女は声を抑えながら笑った。
「で、今日はどうした」
「どうって、お見舞いに来たに決まってるじゃないですか」
「ひとりで?」
「そうですよ」
「篠村は?」
「……今日は、ちょっと」
彼女はふいっと目を逸らし、それでもすぐに表情を整えて、僕の手元を見た。右の人差し指に嵌めていた指輪に目を留めて、くださいよと言った。今度は冗談めかして嫌だと言うと、彼女は残念そうに笑った。
窓の外に何か鳥が来て、少し羽根を整えて飛んでいった。病室はエアコンが効いていたが、外はいかにも暑そうだった。
「……先輩」
「ん?」
「滅びませんでしたね、世界」
ああ、先月のことかぁ、と僕はわざと大仰に言った。当時はノストラダムスの大予言がちょっと流行っていて、それによると、この年の七月に何かが起きることになっていた。もちろん何も起きはせず、世紀末はあと一年半残して終わってしまったような気がしたものだ。
「世界なんてそうそう滅びるもんじゃないよ」
「そんなことないですよ」
彼女はまたふっと顔を逸らして、微笑んだように見えた。
「世界って、人なんですから」
それからもう少し言葉を交わしたが、何を話したか忘れてしまった。最後に彼女は「また会いましょう」と言って、ベッドの傍らの椅子から立ち上がり、僕を見下ろして小さく手を振った。そのときの笑顔が変に明るくて、壊れてしまいそうなくらい完璧で――あるひとつの世界の強烈な印象として、それは今も僕の頭にこびりついている。
役所であれ企業であれ、そこでは誰かの労働力を必要とする。それすなわち妖精さんである。コンピュータの中では数多のソフトウェアが稼働しているが、さらにその中を覗けば無数の妖精さんたちが活躍している訳である。とうとうアタマがどうにかなったかと人は思うであろうが、あまり気にしてはならない。
妖精さんは割と万能で、どんな仕事でも素早くそつなくこなすことが可能だが、最初から有能かというとそうでもなく、やり方を教わらなくては何もできない。そこで、誰かが彼らに働き方を教えてあげる必要がある。その教師をプログラマという。プログラマはプログラムを組むことによって妖精さんの教育を試みる。つまり、プログラムとは妖精さんの教育課程なのである。
前述の通り妖精さんは割と万能だが、ひとりに過剰な仕事を押し付けると、おしなべて効率が悪い。そこで、普通は妖精さんごとに専門教育を施し、その能力に応じて仕事を分担させるという方針を採る。大学が複数の学部を持つように、プログラマも分野ごとに妖精さんのクラスを作る。このクラスを卒業した妖精さんにはどんな仕事を任せたいか、その仕事にはどういうやり方が必要か、その辺を踏まえながらクラス分けを行い、教える内容を定めていく。
クラスが良い具合に出そろったら、あとは各クラスで学んだ妖精さんを必要なだけ召喚し、職場に集結させて仕事を任せるだけである──妖精さんは妖精というだけあって不思議な存在なので、スペースの許す限りいくらでも呼ぶことができる。ただし妖精さんは楽しいことがあると際限なく増える性質があるため、暴走しないようにそれとなく注意しておかねばならない(後段の性質については田中ロミオ氏の著作に詳しい)。
このようにして教育を受けた大勢の妖精さんが協調的に働くことで、役所や企業、もといソフトウェアはうまく動く、ことになっている。少なくとも妖精さんたちは教えに忠実に従って高速で働き回る。故に、もしソフトウェアがうまく動かなかったなら、それはすべて教師たるプログラマの責任である。
以上のようにソフトウェアの要素を妖精さんになぞらえて考えることを、妖精さん指向プログラミングという。かもしれない。頑張ればオブジェクト指向プログラミングの概要くらいなら全面的に妖精さんで説明できそうな気がするが、頑張ったところで何になる訳でもないので、このくらいにしておく。ぼくは自分の妖精さんを養成するだけで手一杯なのである。
]]>
酉の字に三羽の鶏を配した図案は、
その縁起の良さから家内に幸福を招き、
酒とは何の関係も無いと言われています[要出典]。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
彗星というと、ハレー彗星のように数十年に一度戻ってくるようなものが有名だ。ハレー彗星のように短い周期で回帰するのを短周期彗星というのだが(人間の寿命からすると76年でも充分長いが)、わざわざ「短周期」と付けるだけあって、実は長周期彗星という一群も存在する。つまり、数千年だの数万年だのという文字通り宇宙規模な周期で回帰する彗星たちだ。
長周期彗星の中には、さらに非周期彗星というグループがある。偶然近くへ飛んできて離れていったら、おそらく二度と戻ってこないだろうと考えられている彗星たちである。戻ってくる彗星が楕円軌道をとるのに対し、彼らの軌道は放物線や双曲線を描く。グラフにすれば一目瞭然、彼らが原点、すなわち太陽やその近所にある地球を訪れるのは、確かに一度きりに見える。実際にはややこしい理屈によって回帰する場合もあるのではないかと言われているそうだが、数万年に一度有りや無しやという気の長い話なので、まあ一期一会である。
人間の生涯に偶然と必然のどちらが多いか、それは誰にもわからない。ただ、誰に出会って誰に出会わないかには、偶然の要素がかなり多い。進学だとか就職だとか、どういう環境へ出向くかによって偶然の範囲をある程度狭めることはできても、そこに誰が来るかを完全にコントロールすることはできない。一度人間関係が出来ると、定期的に会うのは必然に変わったような気になる。が、何かの拍子にそれが途切れたら、大抵は二度と会えなくなる。出会いは双曲線に乗ってやってくるのだ。
ボカロ曲をまとめつつアルバムタイトルをどうしようかと考えながら、頭のどこかでそんなことを思っていた。ぼくがボカロに出会い、いろいろな曲を作っていろいろな人に受け取ってもらえたのも、やっぱり奇跡みたいなものなんだろう。
そんな感じでまとめたトラPボカロ総集編アルバム『双曲線ランデヴー』と、NoModeシングルカップリング曲をまとめたEP『EWTP』をApollo 5で頒布開始しているので、クロスフェードだけでも聞いて懐かしんでいただければ幸いなのであります。
]]>腕時計型にせよ何にせよ、たぶんウェラブルデバイスに液晶モニターが搭載されている必要は無いのである。もちろんタッチパネルも必要無い。表示部は腕時計型ならクォーツ式の時計と着信などの通知用LEDだけで充分。スピーカーも不要。マイクももちろん要らない。メガネ型でもレンズに何かを映したりしてくれなくて良いし、カメラなんぞも必要無い。
その代わり現在のデスクトップPCに匹敵する高性能なワンチップPCが載っているのである。OSはWindowsかOS X。それがBluetoothでキーボードやマウス、モニター、その他周辺機器と繋がる。あるいはスマホ風のものと繋がる。スマホ風のものは今あるようなちゃんとしたスマホではなくただの入出力用端末、つまり本体はあくまでウェラブルデバイス側なのである。他に無線LANや3G、LTEといった通信機能は必須となろう。時計型ならNTPによる時刻合わせも必須である。これに加えて歩数計や脈拍計などのライフログ系のものがあるとなお良い。充電は無接点が望ましい。
これをいつも腕に巻くなり耳に引っかけるなりしておいて、家や会社ではパソコンっぽく使い、外出中はスマホっぽく使う訳である。もうちょっと妄想をたくましくして、駅や喫茶店やホテルに公共のキーボード、マウス、モニターが設置され、それをちょっと借りたりできれば便利だ。
接続先の入出力端末をどのように切り替えるかとか、その前にも色々と解決すべき問題はたくさんあるだろうが、どちらかといえばぼくにはこういうデバイスの方が便利なように思えるし、何となく動作時間も延びそうである。もっとも、通信に結構な電力を使うようなので、そう簡単にはいかないのだろうけど。
現実的なことはともかく、これひとつで家でも外でも連絡から仕事までこなせるようになれば、ぼくのような人間には大変ありがたい。別にノマドな人々のようにスタバで仕事をしたいという訳ではなく──まあしても良いのだが──帰省やイベント遠征の度に実家その他あちらこちらにノートPCを持って移動している状況が改善されたら嬉しいなぁということである。
それにこういう機械なら懐中時計型でもそんなに違和感は無さそうだ。この場合はスマホ風のデバイスは不要というか、まあスマホが進化したようなシロモノになるだろうか。ウェラブル度(どんな度合いだ)は低くなるが、その代わり低温火傷の心配もしないで済むだろう。
アイデア料を主張したりしないから、どこか作らないだろうか。モバイルデバイスで出遅れ感のあるマイクロソフトさんとかどうですか。あるいは、ぼくが思い付くくらいだから、似たような製品が既にあるのかもしれない。知っている方がいたら教えてください。
]]>しばらくすると物の見方が変わった。ある一連の動きが、何と何がどのように連携することによって作られるのかということを、半分無意識に観察するようになった。ふと気付くと街行く女性のスカートの揺れを凝視したりなどしているので、下手をすると捕まりかねない。
こういう体験は3DCGに限らずしょっちゅうある。楽器を始めたら曲の聴き方が変わったし、作詞や作曲を始めたらまた変わった。プログラミングもそうで、殊にコンピューターゲームを素直に楽しめないことは多い。戦闘中やイベント中、どう書いたらああいう風になるだろうなどと考えてしまうのである。クリエイターとか呼ばれている人種は多かれ少なかれこういう傾向があるんじゃないかと思っているのだが、どうだろう。
よく言われるように、学習は模倣に始まる。その対象は他人に限らないし、他人の作品にも限らない。身の回りにある万物は人に模倣されるために存在すると言っても過言ではない。例えば画家が写生をするのはその典型だ。換言すればこれは物事をよく観察してその要素を自分の中に取り込むという作業で、そうして蓄積したものを組み合わせることで、ようやく作品が形になっていく。もちろんそこには個性やオリジナリティも必要だが、きっとそれはスパイスか調味料程度のものなのだ。
つまるところ多くの先達が散々残している言葉に落ち着いていくのだけど、それは割と真実っぽいなぁと、ようやく最近思えるようになった。まだまだ先は長い。とりあえずは通報されない人間観察の方法を早急に会得しなければなるまい。
]]>ぼくはこの機械を欲しいと思わないが、さりとてそう批判的な訳でもない。ただ、いわゆるウェラブルデバイスが一般化するとして、そのときにも腕時計型が主流だとちょっと困るなとは思う。肌が弱いからである。普通の腕時計でも少し汗ばむだけですぐにかぶれるので着けていられない。
それなら腕時計型でなければ良いのかという話になるが、腕以外は肌が強いかというとそんなこともないので、なかなか難しい。指輪は好きでよく嵌めているが、これも材質によっては駄目だし、そもそもモニターを埋め込むにはいかにも小さい。ホログラフィを搭載できれば面白そうだが、期待するのはちょっと気が早そうだ。要するに、ぼくは現状ウェラブルデバイスとは相性の悪い体だということになるのだろう。
ところで、もし肌に優しい素材の腕時計型デバイスが出たとして、そのときぼくがそれを買うかというと、多分買わない。実のところぼくは懐中時計が好きだからである。出かけ際に腕時計を巻き付けるより懐中時計をひょいと持って行く方が手軽だし、その方がお洒落だとも思っている。周りが腕時計やスマホやケータイで時刻を確認している中、おもむろにポケットから懐中時計を取り出して眺める姿が格好良いと感じるのはおかしな感性だろうか。
そんなことを考えていて、ふと懐中時計型のデバイスが出たら買うかもしれないなと思った。が、よく考えてみると、それはスマホとそう変わらないものであった。しかも大してウェアラブルでもない。スマホと連携するにはちょっと意味の無いデバイスになりそうである。よく考えなくてもそうなのだが。
]]>どちらにしても、この言葉、というか哲学に関するウィキペディアのページを、ぼくがその後何度か読んだことは事実である。それによれば、この言葉は主にキリスト教世界で使われ、現世の楽しみはどうせ死んだら仕舞なんだからほどほどにしておけという、教訓というか戒めというか、まあそういうものであったそうだ。ところが、この言葉が生まれた古代ローマでは、人間死んだらそこまでなんだから生きている限り生を楽しめという警句として使われることが多かったとのことで、まるで正反対で面白い。ぼくとしてはローマ人の意見に賛成だ。
ぼくが初めて死におびえたのは五歳か六歳の頃のことだ。といっても大したことではない。風邪をひいて熱を出し、このまま死んだら嫌だなぁというようなことを、魔女の宅急便のキキのように考えていたのである。前後の記憶はあまり無いのに、そのときの気分と風景は強烈に脳裏に残っている。夕方で、ぼくは額にタオルを当てられてソファで横になっていた。テレビでは何か戦隊ものをやっていて、それをぼんやりした頭で眺めていた。その回はたまたま重要な登場人物が死ぬか死んだ直後だかで重苦しいシーンが多く、それでそんなことを考えたのかもしれない。ともあれこの記憶は案外自分を縛っている。
ゲームであれ音楽であれ、大きなものをひとつ作り上げると、ファウスト博士のように時よ止まれと言いたくなることがある。どんな作品でもそれなりに満足感を与えてくれるからだ。安らかな死に自らの人生への満足感は欠かせない。満足しているタイミングで死ねるかどうかということもあるとは思うが、少なくとも満足する機会を増やすことは自分でできる。それが生きるということであるし、死を想うということでもあるのだろう。
]]>夏の一歩手前とはいえ、梅雨時は肌寒い日もある。それで体調を崩したのかと思ったが、考えてみればそこまで気温の下がった日も無かった。過ごしやすい日が続いたくらいで、それならどうしてかなぁと考えてみたら、どうも金曜日に病院へ行ったことがきっかけだったような気がしてきた。
病院といっても健診みたいなもので、体調が悪いから行ったわけではない。ぼくは割と体が弱い部類に入る人間なので、こういうときは必ずマスクを着けることにしている。そうしないと謎の菌Xなんぞをもらいかねないからである。病院のみならず、電車やバスなどに乗るときも大抵はマスクを着ける。鞄には普段から使い捨てマスクが袋ごと入っているくらいだ。
使い捨てマスクというのは紙で出来ているので、ガーゼマスクのように洗って再利用することは出来ない。当たり前だが、一度使ったら捨てることを前提に作られている。ところで、ぼくは根がケチな人間でもある。その日、鞄の中に新しいマスクも入っていたが、どういう訳か使い古しも入っていた。二ヶ月ほど前に病院に来たときに十分程度しか着けず、もったいないからと鞄に突っ込んだ記憶があるので、どうやらそれのようだった。
人体というのは雑菌のカタマリである。そんなものに一度触れたマスクである。数時間か一日くらいならともかく、二ヶ月もあれば何かが繁殖するのに十分だろう。そんなものを着用したら逆効果もいいところだ。ところが、せっかく取っておいたのだからと深く考えずにそれを着けてしまった。今回の風邪はきっとそれが原因に違いない。
今朝は起きてからずっと濡れマスクをしている。ガーゼマスクだが、おろしたてで気持ちが良い。こちらは洗って再利用するつもりだが、やはりマスクは新しい方が良い。
]]>
旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今年はもうちょっとマジメにブログを更新したい。