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メメント・モリというラテン語を初めて目にしたのはアトラスのペルソナ3のオープニングムービーでのことで、それまでぼくはこの言葉を見たことも聞いたことも無かった。それが死を想えという意味だと知ったのはゲームが中盤に差し掛かった頃で、しかしそれがゲームのシナリオで触れられたからなのか、それとも気になって調べてみたからなのか、その辺はよく覚えていない。
どちらにしても、この言葉、というか哲学に関するウィキペディアのページを、ぼくがその後何度か読んだことは事実である。それによれば、この言葉は主にキリスト教世界で使われ、現世の楽しみはどうせ死んだら仕舞なんだからほどほどにしておけという、教訓というか戒めというか、まあそういうものであったそうだ。ところが、この言葉が生まれた古代ローマでは、人間死んだらそこまでなんだから生きている限り生を楽しめという警句として使われることが多かったとのことで、まるで正反対で面白い。ぼくとしてはローマ人の意見に賛成だ。
ぼくが初めて死におびえたのは五歳か六歳の頃のことだ。といっても大したことではない。風邪をひいて熱を出し、このまま死んだら嫌だなぁというようなことを、魔女の宅急便のキキのように考えていたのである。前後の記憶はあまり無いのに、そのときの気分と風景は強烈に脳裏に残っている。夕方で、ぼくは額にタオルを当てられてソファで横になっていた。テレビでは何か戦隊ものをやっていて、それをぼんやりした頭で眺めていた。その回はたまたま重要な登場人物が死ぬか死んだ直後だかで重苦しいシーンが多く、それでそんなことを考えたのかもしれない。ともあれこの記憶は案外自分を縛っている。
ゲームであれ音楽であれ、大きなものをひとつ作り上げると、ファウスト博士のように時よ止まれと言いたくなることがある。どんな作品でもそれなりに満足感を与えてくれるからだ。安らかな死に自らの人生への満足感は欠かせない。満足しているタイミングで死ねるかどうかということもあるとは思うが、少なくとも満足する機会を増やすことは自分でできる。それが生きるということであるし、死を想うということでもあるのだろう。